ごめんください

 和弘さんは今年で三年生になる現役大学生だ。和弘さんの家族は、おととし母 方の祖父が亡くなったことをきっかけに、祖母の生活の介助をするために母の実 家に引っ越すことにした。和弘さんは、祖母の家に引っ越してから一度も家族に 会っていない。
 その理由は祖母の家にある。もちろん家族には会いたいが、それ以上に家に入
りたくないのだと言う。しかし和弘さんは昔から祖母の家が苦手だった訳ではな い。小さい頃はよく両親に連れられて遊びに行っていたし、小学生になるとしば しば一人で電車を乗り継ぎ訪れていた。祖父母に会うことも理由の一つであった が、一番の目的は静かな環境だった。実家のアパートは狭く、常に親や兄弟の目 がある。大型の商業施設も近く、喧騒に包まれた場所だった。そんな状況に辟易 していた和弘さんは、幼いながらも自然に囲まれた祖父母の家を魅力的に感じていた。
 けれどただ一つ、和弘さんには気にかかることがあった。それはいつも、和弘
さんが一人の時に限って訪ねてくる人がいることだった。いつからか分からない が、少なくとも幼稚園児の時にはもうすでにその人は居た気がする。その人はほ んの少しの隙をついてやってくる。祖母が玄関先のポストから夕刊を取って帰っ てくる間に訪ねてきたこともある。すりガラスを通して人が見えているのに、祖 母は誰もいないかのように扉を開けて帰ってきた。そのとき和弘さんはぼんやり と、これは普通の人間ではないと気づいたと言う。それからもたびたびその人は 祖母の家を訪ねてきたが、和弘さんは一度も返事をしたことはなかった。

 小学五年生の冬休みのこと、和弘さんは一週間ほど祖母の家に滞在していた。 その日は祖父母が知り合いの葬儀に出かけており、家には彼一人だった。案の定 しばらく経つとトン、トンという音が玄関から聞こえてきた。

「ごめんください」


 というか細い声も聞こえる。しばらくすると居なくなるためいつもならば放っ ておくのだが、その時はなぜか、呼びかけに返事をしてみようと思った。暇を持 て余していたからかもしれない。和弘さんは玄関まで走っていくと、 「どちら様ですか?」  とすりガラス前の人物に返事をした。その人物は扉を叩く手を止め、ずい、と 扉に近づいた。ぼやけていた輪郭が鮮明になり、和弘さんはその時初めて相手の 姿を見た。扉の向こうの人物は思っていたよりも小柄で、うぐいす色の着物を着 た白髪の老女だった。老女はさらに顔を扉に近づけ、はっきり和弘さんの目を見 据えた。

「ごめんください。入れていただけませんでしょうか。」

 まだ日は高く外から中の様子は見えないはずなのに、確かに目があっているの だと感じる。老女は品の良い顔立ちに、真っ赤な口紅をつけていた。白い頭髪や 肌の色から赤色だけが浮いているのがいやに不気味に感じられる。和弘さんが事できずにいると、

「ごめんください、御用があります。入れてくださいまし。」

 と再び声をかけてきた。口は動いていないのに声が出ている。和久さんはこの 老女はやはり人間ではないのだ、と確信した。返事をするのは恐ろしかったが、 黙っていると老女が扉を開けて中に入ってくるのではないかと思い、震える声で 応えた。

「あの、ごめんなさい。今は、大人がいないので無理です。」

 すると一瞬の後バン!バンバン!と、振動で横の靴箱が震えるほど強く手のひ らを扉に打ち付けはじめた。先ほどの上品な印象から一変し、体全体をしならせ ガラス戸を殴打する様は狂気的だった。和弘さんはたまらず家の奥へと逃げ込ん だ。ところが、バンバンという音と振動は、玄関に居る時と変わらずついて回る。 玄関から一番遠い部屋の隅で耳をふさいでも、すぐ近くから聞こえてくるよう だった。いよいよパニックになった和弘さんは仏間へと駆け込み、仏壇と先祖の遺影に向かって一心に拝み始めた。一分ほど拝み続けているとふいに周囲が静ま り返った。突然のことに仏壇の前で放心していると、和弘さんの足元、おそらく は床下から

「ごめんください、入れてください。」

 と声が響いた。和弘さんは思わず飛び退き、とっさに仏壇にあった線香立てを 掴むと先ほど立っていた場所に向かって投げつけた。線香立てから零れた灰が畳 に散らばるのと同時に “ギイイイイイイイイイイィィ!!” という凄まじい叫び声と、ザカザカと何かが這いずる音が床下から聞こえた。音 はものすごい速さで玄関の方へと遠ざかって行き、やがて聞こえなくなった。

 この経験以来、和弘さんは祖母の家を避けている。