山怪

 Sさんは地域の情報誌の編集部に勤めている男性だ。

 Sさんの地元では近年、人が管理しなくなった森林が多くなったことに伴う、イノ シシやシカといった野生動物の急増が問題となっていた。そこで、猟友会と地域の飲 食店が協力し、ジビエ料理の提供を始めようという話が持ち上がった。ジビエ料理の 企画が持ちあがってからかねてより、Sさんは猟友会に付きっきりで取材をしていた。 取材中、罠に入ったシカを捌くところを見せてもらえる時があった。猟友会の方の車 で罠の設置場所まで行く道すがら、猟友会の方がおもむろにSさんにお面を渡して きた。何のお面かと尋ねると、シカの前では必ずこのお面をつけてください、とだけ 言われた。Sさんは気になったものの、この地方の猟師に伝わる風習なのだろうと納 得した。

 罠のある場所に着くと、大きな牡鹿が一頭と雌のシカが二頭、檻の中に入っていた。その中の雌のシカが一頭、車から降りたSさんたちに気づくと、興奮したように「グッ グッグ」と鳴き声を上げ始めた。それにつられ、他の二頭も足を鳴らしたり、角でケー ジを突きながら、同じように「グググググ」と共鳴を始めた。猟友会の方が、シカを持ち運び用のケージに移す準備を始めた。Sさんは後ろでその一連の流れを写真に 収めていたのだが、ふと、シカが静かになっていることに気が付いた。シカは三頭とも 鳴くのをやめ、猟友会の方の行動を伺っている。

 すると間もなく、牡鹿が頭を高く上げたかと思うと、「けっけっけっ」と咳のよう な、これまでと違う鳴き声を発し始めた。鳴き声は徐々に変化していき 「けェ…エぇ…えぇぇ…」 「おぉぉぉ…」  と、やがて人間が喉から絞り出したような音を出し始めた。はたしてシカはこんな 鳴き声を出すものだっただろうか。Sさんは取材のことも忘れて牡鹿に見入ってし まった。やがて、雌鹿も同じように頭を挙げて声を出し始めた。Sさんは取材にあたっ てシカの生態を勉強してきたが、どこの資料にも、このような行動をするとは載っていなかった。初めて見るその行動を記録しようとして、Sさんはビデオカメラに持ち 替えた。お面がカメラにあたって上手く撮影できないことをもどかしく感じて、お面 を口のあたりまでずらしてカメラを覗いた。

 すると、それまで猟友会の方を見ていたシカが突然全頭Sさんに向き直った。そし て鳴き声がいっそう大きくなったかと思うと、 「ぇぉぉ…おぉとぉ…さあぁぁん」 「やあぁだぁあぁ」  と、なんとも奇妙で間延びした声で話はじめた。高低差やイントネーションなどあっ たものではなく、めちゃくちゃなのだが、どう聞いても日本語を話している。思わず カメラを取り落としてしまったと同時に、ひどく怒った顔の猟友会の方がSさんの元 へ走ってきた。

「もうあの鹿は加工場まで運べねえ。ジビエの取材も、今日はしめぇだ。」

 そう静かに言うと、急いでその場でシカをしめ、トラックに積んで帰った。後に聞いたのだが、その地域ではシカを積極的に狩るようになってから、罠に捕ま ると人のように話し始めて助けを乞うようになったのだと言う。言葉を話した初め の一頭を驚いて逃がして以来、人間に気が付くと言葉を話して逃走を図るシカが増え たのだそうだ。ただやはり知能は高くなく、顔を見せなければ言葉を発しはじめる までに時間がかかるようだった。そのため苦肉の策として、現在はお面をつけてシカ を運ぶようにしているのだと言う。

「一頭が話すと群れの奴らまで話はじめっからな。山ン中通るときゃあ、鳴かせちゃな んねえんだ。」

 猟友会の方はSさんにそう教えてくれたという。