『ねえ』

 杏奈さんという女性が体験した話。ある秋の夜7時ごろ、杏奈さんはサークル終 わりにいつも通るテニスコート横の小道を、自転車で帰っていた。まだかろうじて日が出ている時間帯で、夕焼けがまぶしかったそう。テニスコートを通り過ぎるあたりで、杏奈さんは誰かに

『ねえ』

 と声をかけられたという。声のした方を向くと、犬を連れた女の子がテニスコートの反対側で手を振っている。どうやらコートを囲むフェンスの内側にいるようだ。

『ねえ、今帰り?』

 その子はまた声をかけてきた。逆光がひどく、誰だかわからないが、大学の同級生だと思って杏奈さんは返事をした。

 「そうだよ!」    すると

 『ねえ、じゃあ一緒に帰ってもいい?』

 と聞いてきた。

 「いいけど、ごめんだれー?」

 さすがに目を凝らしても見えないので、人違いではないだろうかと聞いた。ところが、相手の子は問いかけには答えずに

 『ありがとう。そっちに行くね。』

 と言って杏奈さんの方に向かってきた。そこで彼女は不思議な感覚になった。女の子はまだ手を振り続けながらテニスコートの中ほどまで来ている。何かがおかしい。連れている犬が動いていないのだ。歩くにしても上下に揺れるだろうに、犬はズリズリと無気力に惹かれているだけ。それだけではない。もうフェンスまで数メートルしかないのに、未だに顔が見えない。夕暮れ時とはいえ、さすがにおかしい。    さらに近くなり、杏奈さんはやっと気づいた。その子が引きずっているのは犬ではない。自分の手を、異様に長い腕を引きずっていた。よく見ればブンブンと振っているほうの腕だって、2メートル近くあるようだ。そこまで考えたときにはもう、その子はフェンスの端についていた。杏奈さんとの距離は3メートルほどしかないのに、全身が影のようで、顔や服の詳細は全くわからない。
 杏奈さんは恐怖でその場から動けなくなってしまった。逃げなきゃ、けれど、足がすくんで動かない。それに、今目を離せば影に襲われるのではないかと思うと、余計に焦りと恐怖で足が震えてくる。
 頭の中でぐるぐる考えていると、

 『ねえ、ここ開けて。』
 と影が声をかけてきた。声は静かなのに、左腕は尋常じゃない速さで左右に、めちゃくちゃな動きで振られている。そのギャップが恐ろしさをいっそう掻き立てる。影はもう一度

 『ねえ、あけて。』    と言う。どうやら自分ではフェンスの扉を開けられないようだ。だが、フェンスは十字のノブを回すだけで簡単に開いてしまう。影が気づかない今のうちに帰らなくては。杏奈さんは震えを抑えつつ

「ごめん。今日は一緒に、帰れない!」
 と叫ぶと、震える足でペダルをこぎ帰った。とても後ろは確認できなかったが、追ってきている感じはしなかったという。

 翌日、杏奈さんは昨夜のことを思い出すと一人で帰宅することができず、友人に声をかけた。同じアパートに住む友人は、杏奈さんの話を信じたわけでは無いようだったが、一緒に帰ってくれることになった。帰り道、杏奈さんの要望でテニスコートを避ける、少し遠回りの道で帰ることにした。途中、高いフェンスに囲まれた貯水池を通るとき、

「ちょうどこのくらいの近さで・・・」

 と杏奈さんが言いかけたその時

 『ねえ』

 と、二人の斜め後ろから聞こえた。そんなわけがない。さっきは誰もいなかった。そもそも貯水池に入る人なんて。二人は怖くなり、急いで帰った。その後は二人とも、おかしなことや不幸にはあっていないという。
 杏奈さんは今でも、夕暮れ時にはフェンスのあるところに近寄らないよう気をつけている。